アンドレ・ブルトンと幼年時代

「宣言*1」の冒頭で、ブルトンはこう述べている。

豊かだとか貧しいとかいうことはとるにたりない。この点では、人間はまだ生まれたばかりの子供のままだし、また道義的意識への同意については、そんなものなどなくても平気でいられるということを認めよう。いくらか明晰さをのこしているなら、このとき、人間は自分の幼年時代をたよりにするしかない。

また、後にこうも述べている。

幼年時代やその他あれこれの思い出からは、どこか買い占められていない感じ、したがって道をはずれているという感じがあふれてくるが、私はそれこそが世にもゆたかなものだと考えている。「真の人生」にいちばん近いものは、たぶん幼年時代である。幼年時代をすぎてしまうと、人間は自分の通行証のほかに、せいぜい幾枚かの優待券をしか自由に使えなくなる。ところが幼年時代には、偶然にたよらずに自分自身を効果的に所有するということのために、すべてが一致協力していたのである。

俺は子供のころの思い出があまりにも情けないものばかりだという理由から、幼年時代の思い出というものを思い出すことをだいぶ前からやめていた。というか避けていたものだ。しかしこれを読んで、子供のころのことを思い返してみると、確かにこのようなことが思い当たる。子供のころ、ほんの4、5歳のころだろうか、俺はいとも簡単に物語を作り出していたし、それを口頭で、いつでも、自然に、語ることができた。その能力は持って生まれたもののようで、しかし今では、失われてしまった。いつごろからだろうか、ブルトンが言うように、「通行証のほかに、せいぜい幾枚かの優待券をしか自由に使えなく」なってしまったのだ。それは俺たちに責任というものがあり、「大人」になるために教えられたことがらによると思う。俺たちは物語、夢物語、おとぎ話などといったものを、幼稚だといって避けることを教えられた。そのかわりに俺たちが読んだり関わったりするものは教科書、辞書、説明書、自己啓発書などになり、俺たちから生まれていた物語からは遠ざかってしまったのだ。それが大人になることだ、と世間一般では思われている。だが本当にそれが正しいだろうか。俺たちが生まれ持っていた想像力から離れることは、賢明なことだろうか。想像力から離れることは、甚大なストレスにさらされることだと俺は思う。なぜなら幼年時代には社会や常識といったものに左右されることなく自分自身を自然に表現できていたが、今ではそれらに固められてしまっているからだ。しかしブルトンはそれら幼年時代の思い出をを思いおこすことで、「買い占められていない感じ」を思い出すことを俺たちに伝えている。思うに子供のころの俺は今と比べると考えられないほどシュルだった。しかし、それを取り戻すことができるとブルトンは述べている。シュルレアリスムにとってそれがいかにも大切なことなのだ。子供のころのように自由奔放に言葉を紡ぐこと、それを思い出すことで俺たちの空腹が癒される、それがシュルレアリスムではないだろうか。