アンドレ・ブルトンと労働についてのメモ

再録。かなり前に書いたものなので、いろいろアレです。


アンドレブルトンと労働はの冒頭で、労働についてちらっと触れている。「ナジャ」でも書かれていて、ブルトンが労働反対者であったことがわかる。しかしなぜブルトンは労働を嫌っていたのだろうか。思うに、労働はブルトンの言う「想像力」を押し込めるものだからではないだろうか。俺は子供の頃はもっと想像力と親しんでいたと思うし、いまなぜ俺がそのような想像力を(だんだんと)失ってしまったかといえば、ひとえに労働のせいだろう。何も給料をもらって働くことだけではないと俺は思う。学校という場所では生徒たちは過酷な労働を強いられている。授業、宿題、塾、テスト、これらすべてが労働であり、俺たちはそのような労働に耐えて育ってきた。その結果社会性というものを身に付けたが、想像力の方は俺たちから逃れ去って行った。俺たちは人と接する方法をおぼえたが、自分自身と接する方法は忘れてしまったのだ。想像力はそのようにして俺たちから逃れ去っていくのではないだろうか。だからブルトンは労働を嫌ったのではないだろうか。俺も、もちろん労働は嫌いだ。できることなら、一日中好きにしていたいのは誰でも考えることだろう。好きにすること、それは俺にとって想像力に身を任せることだ。現代の俺たちには、想像力に身を任せることがあまりにも少ない。毎日、同じ時間の電車に乗り、人ごみの中を歩き、会社に着き、一日中くだらない仕事とやらに取り組み、帰るときには疲れ果てている。そんな生活では想像力など養えるはずがない。ブルトンの時代でさえそうだったのだから、今では、それに日本では、もっとだろう。だからこそシュルレアリスムが俺たちに必要なのだと思う。