現実と非現実のかなた

前回、「ショックだったことがある」と書きました。すごく個人的なことなんですが、
俺にとって、家族にとって、また普遍的社会にとって、重要なことです。
実は、俺がオーストラリアにいる間に、従姉が自殺していたのです。
命日は2007年の11月1日でした。
家族は俺のオーストラリアでの仕事がうまくいっている事を知っていたので、連絡しなかった。
だから俺がその事実を知ったのは帰国してからです。従姉が亡くなってから、
俺が彼女の死を知るまで、ほとんどまる一年経っていたのです。
ちょうど先週土曜日が、一周忌にあたりました。
従姉とはあまり交流がなく、幼い頃に何度か会ったのをおぼえているくらいなのですが、
彼女の話は、祖母からよく聞いていたので知っていました。
一周忌にあたるその日も、俺たち親類が集まって話しをしました。それからミサ。
従姉の家族は皆カトリックだったのです。お骨もその教会に収められていました。


彼女はなぜ自殺したのでしょうか。
祖母から聞いた話では、彼女は、過食症で医者にかかっている、
ということでした。
俺も、詳しいことは知らないし彼女と直接話したわけではないので、
どんな複雑な事情があったのか分からないけど、親戚のひとりが消えてなくなるなんて、
俺は信じられません。しかも20代後半という若さで…。


俺は子供の頃から、近い親戚の死というものを経験してきませんでした。
母方、父方の祖父母ともに健在で、会ったことのないような遠い親戚の葬式などに
行ったことがあるだけです。
幸運にも、阪神大震災でさえみんな無事に生き残った。
でも、そんな風に近い親戚の死から遠ざかって生きてきた俺も、
自分の「死」については考えてきました。19歳から鬱病にかかり、
そのときは、自殺についても何度も考えました。それでも、それは実行にうつすかどうか、
ということとは、別問題だったのです。アンドレ・ブルトンが言っていたことは、

生きること、生きるのをやめることは、想像の中の解決だ。生はべつのところにある。


シュルレアリスム宣言」より

ですが、俺の場合も結局は、そこに行き着いたのです。
俺が「死にたい」とか、「いや、やっぱり死にたくない」とか言うのは、
言わば脳細胞のレトリックの上での、記述された死でしかないのです。
だから、いくら死について考えたり書いたりしても、俺が自殺することはない。
しかし従姉は、彼女はどうして実行にうつすことができたのでしょうか。
彼女は家族と住んでいましたし、彼氏もいたらしい。支えてくれる人は、いたのです。
それとも、それが重荷だったのでしょうか。
ずっと長いこと自殺について考えていると、いつか実行にうつしてしまうものなのでしょうか。
ジャック・リゴーは、

ぼくは快楽のようにまじめだ。
生きるための理由はない。だがまた死ぬ理由もない。
人生に対する軽蔑を示すために僕らに残された唯一の方法は
人生を受け入れることだ。
人生はわざわざ骨を折ってまでそれを捨てるに値しない…。


「遺稿集」より

と書いてその後、自殺しました。
「想像の中の死」が、現実の死に変わる瞬間というのが、
どこかで来るものなのでしょうか。
この言葉はブルトンの「黒いユーモア選集」のカバーに印刷されているんですが、
ずっと心にとりついているのです。


俺は、自分だったらどうだろうか、と考えたりもしました。
俺だったら、多分、家で自殺はできないな、とか、
バカみたいに劇的な文句ばかり積み上げた遺書も書くだろうな、とか。
でも、やっぱりそれも「想像の中の解決」であって、
従姉が実際に感じた気持ちには近づけないんですよね。近づくことが許されていないんです。
彼女の写真に向かって、毎日「おはよう」「おやすみ」と声をかけ、
話しかける祖母の姿は、俺にとって安らぎに満ちたものとしてうつりました。哀愁とか、同情とか、
そんなことは、俺は感じませんでした。
俺は「死」とか「自殺」とかについてよく考えてきました。
でも、実際の自殺に対面したのはこれがはじめてのことです。
これで何が変わるでしょうか。従姉は、何かを変えたかったのでしょうか。
何も変えたくなかったのでしょうか。彼女は、天国を信じていたのでしょうか。
彼女を裁いたのは神だったのでしょうか。自分自身だったのでしょうか。
死の前、最後に読んだ本は誰の、何というタイトルの本だったのでしょうか。
彼女の病気はどのくらいひどかったのでしょうか。
彼女は誰かに自殺をほのめかしたでしょうか。ノートに何か書いていたでしょうか。
つらくても、なんとか生きていく方法はなかったのでしょうか。


彼女の病気と俺の病気は、全然違うものだったのかもしれないけど、
俺が力になれなかったかなぁ。


後悔しても、もうどうしようもないことですが、
どうしても、してしまいます。
彼女が自分の死をのぞんだ、ということはわかるのですが、
やっぱり、どうしても現実のことだという実感がわきません。
「死にたい」と、言うのは、書くのは、簡単です。
ビルの屋上にのぼって、「死んでやるー!」と言うことも、簡単ではないにしろ、
できるかもしれない。
でも、飛び降りることができるかどうかは、別の話。
本当に別の話。


残された俺たちがしっかり生きなければ。





自殺 - Wikipedia


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