みなさんこんばんは。

この度、東京は池袋でポエトリーリーディングイベントをされている


mido氏


http://d.hatena.ne.jp/mido-mido-mido/
http://twitter.com/tkmidomidomido/



が、ぼくの写真を紹介してくださる(!!!)
ことになりました。わーい。
mido氏、ほんとうにありがとうございます。
これは名誉です、名誉です。


氏が主催されているイベント


Mido midnight vol.12
5月11日、池袋 3 -tri-


にて行われます。素敵なゲストもいらっしゃるそうで、
It's gonna be awesome!!!!! きっとすばらしいですよ!!!
みなさんぜひ足を運んでください。


ところで・・・
ぼくが撮った写真は


●twitpic:http://twitpic.com/photos/marcus0k

PIXTAhttp://pixta.jp/@marcus0k/(WORKSをクリックしてね)

はてなフォトライフ: http://f.hatena.ne.jp/marcus-k/


にありますよん。ぜひご覧ください。
下にピックアップして何枚か貼っておきますね。
↓ check out!!! ↓






非現実のような現実−ぼくがオペを受けた顛末 #2

オペは無事に終わっても、ぼくは少しも落ち着かなかった。
ぼくから切り取られた組織がいまは試験管の中に入っていて、
検査をうけている。
痛みはいざ経験してみると、なんだ、こんなもんか、という程度。
翌日の昼からはもう痛み止めも必要なかった。
ところで最初にガンかもしれない、と言われたときから
ぼくの中で何かが変わりはじめたような気がする。
だってぼくはまだ若いし・・・
でも、もっとほんとうに正真正銘、誰から見ても若い連中と比べたら、
それほど若くはない。
それどころか、急に年寄りになった気分。
ぼくは、トイレに行きたくなるたびに車椅子を持ってきてもらうのが
いやで、狂気じみたひどい歩き方で、トイレまで
体を引きずっていく。
しかもトイレが近いせいで、ばかみたいに何度も行かなきゃならない。
そして一日に何度もこう自問するんだ。
「ぼくってガンなのかな。ずっとこうやって入院してなきゃ
ならないのかな。死ぬまでこうなのかな」
そして別のぼくが弱々しい声で反論する。
「まさか。ぼくがガンなわけないじゃないか」
そしてぼくは思う。
「ああ、ぼくってガンなのかな。両親より先に死んでいく運命なのかな。
放射線治療もうけるのかな。頭もハゲになるのかな。
何年ぐらい生きられるだろうな。
やせ細ってガリガリになるかな。
死ぬときはああ痛い、苦しい、モルヒネもっとちょうだいって
言いながら死ぬのかな」
そしてぼくは思う。
「おれはガンじゃないよ!!」
そしてぼくは思う。
「ぼくは死んだら英雄になるんだろうか。
ぼくの物語にみんなが涙するんだろうか。
あいつはガンと戦って死んだ、勇敢なやつだったって」
そしてぼくは思う。
「いや、そうじゃなくて・・・」
そして、それだけで一日が終わる。
病院での、ぼくのもやもやした一日。うんざりする。

非現実のような現実−ぼくがオペを受けた顛末 #1

きみたちはまな板の上の魚になったことある?
ぼくはあるよ。少なくとも、そういう気分になったことはある。
手術台の上に寝かされるっていうのはほんとうに、それくらい変な気分。
なにより手術室って広すぎるし、わけのわからない銀色の機械だらけだし、
寒々しい白衣を着たわけのわからない人が何人もいるし、
もうぼくなんてガタガタ震えるだけでせいいっぱい。
緊張するからって手術中はモーツァルトを流してもらってたけど、
音楽どころじゃなかった。
でもひとつ言っていいことがあるな。
あのレンコン型大シャンデリア
ギラギラな光を放射するオペ用ライトのこと。
体の隅々まで照らし出されるようで嫌だった。
ぼくは以前、「いつかスポットライトを浴びたいな」って思ったことが
あるんだけど、こういうことじゃないよ。
ライトは、金色と魚の腹みたいな艶のあるエメラルド色に輝いていて
とてもきれいだった。
あの手術室でぼくが見た美というのはそれだけ。
あとはもう、不気味なことばかり。
なんと言っても、手術中に意識があるというのはほんとうに不気味。
局所麻酔って痛いしね。
それに注射したあとも感触はあるから、
「あ、いま血を拭いているな」とかがわかる。
「あ、いま縫っている」とか。
自分の体からなにかが切り取られるっていうのは恐ろしい感覚。
だからぼくは、手術の間じゅう、
感覚と精神を切り離そうとつとめていた。
これはぼくじゃない、ぼくはここにいない、この感覚は
ぼくじゃない、ぼくのものじゃない・・・
と唱えつづけていたんだ。
終わったときうれしかったかと聞かれたら、
うんと答えるだろう。でも、それほどの大きな安堵でもなかった。
病室には車椅子でもどった。
ぼくは自分が車椅子に乗ってるなんて信じられなかった。
なんだかいつもよりもっと小さくなったような気がして心細かったな。
しばらく緊張で体がこわばったままだったけど、
ある瞬間に「あ、生きてる」と思ったことはおぼえている。
痛みに集中しないようにするだけで疲れてしまい、
鎮静剤をもらって眠るときは何も考えなかった。
それで向かいのベッドの人のトドみたいないびきも気にせず眠ることができた。



アンディ・ウォーホルの

「ぼくの哲学」ですが、おもしろいです。
気に入った一節を引用。

ぼくは都会っ子だ。大きな都市には公園という小型の田舎を作ってあるから行けるけど、田舎に行ったって小型の都会はないものね、だからホームシックになるんだ。
(中略)
都会では公園の木でさえ一生懸命働く、人が多いから酸素と葉緑素を作らなければならない、それはもう大変なものだ。カナダに住んでいたら君一人のために百万本の木が酸素を作ってくれてるかもしれない。だから木一本一本はそんなに懸命に働かなくてもいいと思う。タイムズスクエア辺りの街路鉢の木は何百万人のために酸素を作っている。ニューヨークでは木だってがんばらなくっちゃと思っている。見ればわかるよ。

こういう考え方好き。
なんか子供みたいに純粋な発想で好感が持てる。
この本には会話をテープにとったものから起こした章も
あるけど、それも面白い。
全体に映画みたいな印象。
それに、ところどころさりげなくうんこネタを散りばめるセンスは
見習おうと思った。
眼鏡かけてスーツ着てる写真はまじめそうに見えるから、
うんことか言うとは思わなかった。

↓↓↓↓
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森村泰昌展に行ってきましたよ

昨日のこと、
森村泰昌展・なにものかへのレクイエム──戦場の頂上の芸術
に行きました。
最初は行くつもりなかったのです。それが・・・
ある日「ヒマだなぁ」と思って家を出て電車に乗ったら、
疲れてたみたいで寝過ごしちゃった。
で、いつの間にか美術館の最寄駅に着いてたというわけです。
それでまあ、せっかくだから美術館にでも行こうと思い、
たまたまやってたのが森村展。


ほんと、たまたまなんです。
僕は戦争とか右とか左とかは興味ないですしね・・・
でも、入ってみると、
すべてがすばらしかったです。
何よりエネルギーがあふれてます。
写真、映像作品、どれもすばらしいです。
政治がどうの、とかいう話ではなくて、人間の生き方について
考えさせられるものがある、と思いました。
もちろん、芸術・反芸術という意味でも
考えさせられました。


森村自身がいろんな人物に扮したりしているわけですが、
アインシュタインとかは本当、メチャ似てると思います。
で一番印象深かったのが、アンディ・ウォーホルのやつ。
この作品は、森村がウォーホルに扮して女装したウォーホルに
扮した自分の写真を別画面から撮ったり、と
こういうふうに文章で書くとわけがわかりませんね。
気になる人は美術館に行ってください。


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詳細についてはこちらの「アートスケープ」の記事をどうぞ
去勢された20世紀的身体への訣別──「森村泰昌展・なにものかへのレクイエム──戦場の頂上の芸術」レビュー:フォーカス|美術館・アート情報 artscape
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森村は、写真家としての多重性という印象において、
なんとなく Claude Cahun を思わせるような、
何か、そうですね、
自分は何者かっていうのは、誰が決めるんだろう?
というような、疑問を感じさせるような気がします。


そういうわけで、
ちょっとウォーホルに興味を惹かれたので本屋に寄って
「ぼくの哲学」(ウォーホル著)を立ち読みしていたら、
ウォーホルの命日が2月22日だったそうで。
よりにもよって猫の日とは…(ウォーホルはにゃんこ・わんこ好きだったみたい)
しかも、昨日2月23日のことだったのでなおさら何か
運命的なものを感じます。
それでその本は、結局買ってしまいました。
おもしろいですよ。


ぼくの哲学

ぼくの哲学