命題:労働は人生の目的でありえるか 第一回

● こんな労働は嫌だ

  • ノルマをこなせる人が一人もいない
  • 所得税が100%
  • 「器用貧乏求ム」とか言っている
  • サービス残業が勤務時間より長い
  • ハイリスクノーリターン
  • 過労で倒れる人の数で競っている
  • 過労で倒れると勲章がもらえる
  • 勲章をもらうごとにレベルアップできる
  • 遅刻するとマイナス1ポイント
  • 休憩がない
  • 労災がおりない
  • ボーナスなど聞いたことがない
  • 労働基準法は都市伝説だと思っている
  • そもそも労働基準法の存在意義を知りたい
  • 赤い服を着た人がそろそろ増えてくる頃か…

● ムダなアリなどいない!の話

よく言われる話をひとつ。アリは、とても効率的にシステム化された社会を築いている。働きアリは、常に働いているというイメージがあるけれども、実は、そうではない。
詳細は省いて話を単純にすると、働きアリのうち8割が働いているが、2割は全然働いていないということ。(ただ、「働いているアリ」の中にも、とても勤勉に働くアリと、ふつうに働くアリと、それほど働かないアリがいるらしい。)
ということは、働かない2割はムダなアリなんだろうか?
「極効率化」を考えれば、そうかもしれない。でもその2割の「怠けアリ」にも、ちゃんと役割があることがわかっている。
巣の中でじっとしているアリ(人間で言えば、引きこもりか)は、働いているアリが過労で疲れたとか、死んでしまったとか、そういう有事のときの交代要員。社会全体として余力を残しておくことで、何かあったとき(たとえば、働きに出ていたアリたちが人間に踏まれたとか、動物に食べられたとかで死んでしまったとき)、群れ全体が死に絶えることがないようになっているのだ。だから実際に、働かないアリだけを群れから分離してしばらくすると、そのうちの8割が働き始めるという。
聞いたところでは、この実験は幼稚園児にも適用できるらしい。遊んだあと、お片づけをする園児たちを観察していると、8割が実際に片づけをしているのに対して、2割は何もしていないということに気づく。これは働きアリと同じだ。そして、2割の「怠け組」だけを集めてお片づけをさせると、やはりそのうち8割が働き出すという。
もちろん、大人になって働く、となると話はそれほど単純ではなくなる。*1けれども社会の構造としては、この8割2割の働きアリのシステムは理解できる枠組なのではないだろうか。
また、巣の中の引きこもりアリとは別に、「特に何をするでもなくただ外をうろついているアリ」というのもいるらしい。(これは、人間で言うとプー太郎か、より古臭く言えば、フーテンか。)この場合も、そんなのはムダではないか、ということになりそうだが、これらのアリたちの役割も、実はきちんとある。働きアリたちは、食べ物を見つけた場所などの情報を仲間に伝え、コミュニケーションをとることで規則正しく行動している。だが、決まったルーティンからはずれてうろつくプー太郎アリがいることで、新しいエサ場を発見する確率が高くなるというのだ。
この考え方は、ビジネスや統計学でいう「ランダム・ウォーク」と似ている。「ブレインストーミング」を思い浮かべる人もいるかもしれない。要するに、規則的でなければならない、という制約をなくすことで、ものごとの惰性を取り除いているのだ。



● 働かざるもの生きるべからず、の社会にわれわれは住んでいるのか

このようなことを考え合わせると、われわれ「働きアリ」が、「働かざるもの食うべからず(=生きるべからず)」と言うときには、労働への称揚や誇りに思う気持ちが込められているわけだが、その中心にあるのは、傲慢さと排他主義なんじゃないかと思う。「怠けている人」または、「怠けているように見える人」を、高所から見下ろすように批判するとき、われわれはどんな社会を理想に掲げているのだろうか?「一億総労働」で解決、めでたしなのだろうか。
ちなみに、憲法第27条で規定された日本国の三大義務とは、教育・納税・勤労だそうだ。
労働はわれわれの権利でなく、義務だったらしい。


(次回に続く)


「世間」の捨て方

「世間」の捨て方

怠ける権利 (平凡社ライブラリー)

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● 編集後記

今日テレビで丸山弁護士が、「永田町には8割2割の法則というのがある。本当に必要な人は2割。あとの8割はいらない人」という発言をされていた。
これはアリの話と似ているなと思ったが、最近の政治家の方々の動きを見ていると、「あとの8割」はほんとうにムダなのかもしれない、と言いたくもなる。天下り汚職などをしている方々は、せめて自分たちは怠けているほうのアリなんだという意識ぐらいは持ってほしいところだ。

*1:これも聞いた話だが、ある研究によれば、会社全体で2割の勤勉な人々がすべての仕事のうち8割をこなし、残る8割の“ふつうの”人々が2割の仕事をしているということだ。逆に言えば、その割合が一番効率が良いということではないかと思う。ただこの考え方はとてもアメリカ的だと言えるため、(日本など)ほかの国では割合が違うかもしれない。日本人は、全員が同じ量の仕事をするのが平等だと思っているふしがあるような気がする。ひとりひとりの能力が違う以上、それは酷だと思わないでもない…。