名前の問題について

まず、俺が自分の名前について最初に意識したきっかけは、小学生のころ(だったと思う)、先生から「人は一生かけて自分の名前らしくなってゆく」という話を聞いたことです。俺はもともと自分の名前が気に入らなくて、それを聞いたときは「そうかなぁ」と思ったものです。もしかしたら、今は気に入らなくても、だんだんとなじんで自分にはこの名前しかない、とでも思うようになるのだろうか…とか。
この意識が変わったのは、かなり後、映画「マトリックス」を観たときのことです。マトリックスでは、主人公ネオが、自分のもとの名前、「アンダーソン」を捨てて、自分でつけた名前「ネオ」として生きていく姿が象徴的に描かれていました。もともと自分についている名前など、ただ他人との区別をつけるためにつけられた記号に過ぎない。自分のことを一番よく知っているのは自分なのだから(そう信じたいから)、もともとの名前が気に入らないのなら自分で好きな名前をつけたって構わない。当時俺はその考えにずいぶんとこだわって、戸籍上の名前はどうであれ、俺は自分でつけた名前の「俺」として生きていこう、などと思っていました。
まぁ、今考えるとそれはそれで正しかったと思うのですが、最近、また考えをあらためたのです。というのは、ルネ・マグリットの言うように、物の名前というのは、ただの記号です。人間の名前もそう。これは前と同じ。ですが、さらに俺自身にとっても、ただの記号。それはもともとの名前でも、自分でつけた名前でも同じこと。だから自分でつけた名前で一生生きていく、ということではなくて、それがまた気に入らなくなったら変えてもいいし、いくつ名前を持ってもいいんじゃないか。
では、人間を、ほかの人間と区別をつけるのはなんなのか。
それは映画「ヘルボーイ」で語られているように、その人が何を選択するか、ということなのです。外見がどうであれ、名前がどうであれ、結果がどうであれ、何を選択するか、なのです。それが他人と自分との区別をつけることであるし、それが一番大切なことだと…。
なんかくだらない映画のせりふみたいになってきた。
ここらへんでやめておこう。