実存主義について

「我思うゆえに我あり」ならば、脳みそのないものたちは実存するとは言えないのではないか?なぜなら、「我思う」ことができるのは脳みそがあるものに限られているから。この言葉からすると、思考することができないものは実存しないことになるのでは?…いや、これは「実存」ではなく「自存」の問題だったか。
「実存」はしかし、「自存」するものに依存しているように思える。私たちは目や鼻などの感覚器官でもって外世界を認識する。そして、私たちが死ねば、外世界を感じることができない。つまり、「私」が死ねば世界が実存するのか、実存しないのかを知る術はないことになる。もしくは、ここではっきり言っておくべきかもしれない。「私」が死ねば、世界は消えてなくなる、実存しなくなると。自分が死んでも世界は存在する、または何らかの方法で世界を視ることができると何となく考えている人が大勢いるようだ。しかし、世界を感じることができなくなれば、どうやってそれがあると言えるだろうか。世界を実存させているのは思考ではない。それは感覚だ。


結論。マッコウクジラは私と同じぐらい実存する。サンゴのひとつひとつのポリプについても同様である。


(次回、『想像の中の実存』に続く)