族・モヒカンとむらびと

以前、どっちも極端すぎるって書いたけど、それだけではよくわからないので、もっと書いてみる。


まず、極端すぎるっていうのは、一眼レフカメラにたとえるとこうなる。
・モヒカン…マニュアル専。ピントももちろん自分で合わせる。技術を磨き他人とも切磋琢磨。オートで撮ろうとはしない。
むらびと…オート専。それでうまくいかなければ、自分で調べず他人に質問しまくる。マニュアルで撮ろうとはしない。
(・イロクォイ…カメラを持っていない)

あくまで例えだが、そんな極端な人はあまりいない。だいたいの人は、状況によって、マニュアルとオートを使い分ける。また、近くにカメラにくわしい人がいるなど、場合によって自分で調べるより他人に質問することを優先するときもある。だからだいたいの人は、モヒカンとむらびとの中間地点に位置していることになる。


だが、むらびとはだいたい受身である。自分でなにか創り出そうとしない。オープンソースフリーソフトというような言葉に関わっている人は、ほぼ100パーセントモヒカンだろう。つまり、このWeb世界において、モヒカンとは神である。創造主、一者である。そして、その真逆に位置するのがむらびとつまりアクマである。
そしてその中間の俺たちが、ただの人民である。
そういうことになると、いろいろ有用なソフトを創り出したり、それを助けたりしている人は無数にいるわけだから、創造主がたくさんいることになる。また、アクマもたくさんいる。そしてモヒカンとむらびとは、ホルスとセトのようにダブレットとして見られることはあり得ないわけだから、この神話は、極端な『多神教』の『二元論』ということになる。…